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太宰治の畜犬談のあらすじと読んだ感想!私が犬嫌いな理由を考察!

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太宰治『畜犬談』の滑稽の魅力

「私は自信がある。犬に食いつかれるであろう自信である」から始まる本作の魅力の1つは、まず間違いなく「滑稽と真面目による面白さ」でしょう。

語り手である「私」は冒頭から大わらわで物語を進めてゆき、要所要所でその「真面目から繰り出される面白み」を覗かせ、ストーリー展開に独特の強弱をつけていきます。

そしてこの「強弱」にこそ、恐らく読者が引き込まれる脚色の魅力があります。「私」が犬が怖くて怖くて、その友人が犬から受けた被害(噛みつかれた事件)を引き合いに出しながら、その犬に噛みつかれることへの恐怖を切々と、真面目に読者へ伝えていきます。

このときも「私」は非常に真面目で、犬の習性を「科学的に証明するという姿勢」で、人にとっての犬の恐怖を説いていきます。

よく、真面目なニュースでハプニングが起きてしまうと、それだけで「ハプニング大賞」に選ばれてしまうほどの面白さを演出してしまうことがあります。

恐らく本作にも、この「真面目に伝えられるニュース」から醸し出される滑稽さと似た「面白さ」が組み込まれてあるのでしょう。

そうして「犬の恐怖」を読者へ演説風に伝えていきながら、とかく犬から身を避けるために様々な工夫をするのに、その工夫が功を奏して、逆に犬に好かれてしまうという失敗をします。

ここに本作のいわば「オチ」が潜んでいるのです。そしてこの「オチ」こそが、本作が最もその魅力を発揮する焦点でもあるのです。

そう、「私」は犬の恐怖を避けようとするあまり、犬の機嫌をふんだんに取っていたのです。その機嫌取りが逆に功を奏する形で、「私」は多くの犬から好かれてしまうというオチです。

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登場人物の役割

「私」の役割は先述の通りに、「犬を嫌い、犬に媚びを売り続けて逆に犬から好かれてしまうというコメディ役者」を演じています。

本作にはこの「私」の他に、「妻」「多くの犬」「友人」「ポチ」という主だったキャラクターが盛り込まれています。

この内の「妻」と「ポチ」の役割とが、恐らく非常に重要になってきます。「妻」は「私」の妻で、べつだん犬を全く恐れていません。

それどころか妻は、犬に対するそれなりの可愛がる気持ちと、率先してリードできるだけの強さを兼ねそろえています。

ラストの場面では、「妻」は「私」に犬を殺すようにさえ仕向けてきます(結局は死にませんが)。

いえば「妻」は、「一般の日常生活に見られる飼い主的なキャラクターに仕上げられている」と言ってよいでしょうか。

そして「ポチ」ですが、この「ポチ」は「犬に媚び売りをする私」についてきて、結局は「私」と「妻」の家に住み着くようになります。

そしてしきりに「私」へ愛嬌を見せ、「私」に好かれるような努力を続けていきます。いえばこの「ポチ」も、日常生活に多く見られる「飼い主に普通に好かれたい健常な犬の役割を演じている」と言ってよいでしょう。

こうしたキャラクター同士が作り上げるストーリーです。こうしたキャラクターの中でこそ、やはり「私」の滑稽さはますますもって光ります。

「私」の周りに登場し、生活してゆくその姿勢は、全く日常で見られる普通のもの。そんな「普通の景色」の中だからこそ、「私」の非情に真面目で滑稽な言動はますます浮き立つ形で、本作に込められた「面白み」を引き立てるのです。

キャラクターデザインを駆使した、見事な「滑稽譚」と言っても過言ではないないでしょう。

『畜犬談』とは、当時の風刺を精一杯に込めた、痛快作品!

本作が発表された当時の文壇は「作家が編集者と読者に、まるで媚び売りをするようにして作品を書く」という風潮が蔓延していました。(『畜犬談』に関する論考・試論などを参照して頂ければ幸いです)。

そしてその作家の姿勢や態度は、本作で登場する「犬」と「私」の姿勢や態度に類似(いや酷似)している、と言ってよいほどの「通じ合う風景や気色」が浮き出るものでした。

本作の妙味、というか「本作で最も訴えたかった主張」というものはここでしょう。恐らくこの「風刺描写」に浮き彫りにされていると言えるでしょう。

本作の論考や試論に視座を向ければ、そこでは「太宰は本作をもって、作家と読者の姿勢と立場の逆転的なあり方に、一定の非難をしている」と言われます。

「犬の被害を受けた友人」は、その被害によって伝染病(恐水病)を受けたことにされ(比ゆ的ですが)その「犬の媚び売りの性質が移された」という描写がなされます。

そして「私」は犬を散々嫌いながらも、最後には「作家は弱者の味方だった」と思い直して、自分に近寄ってくれた「ポチ」を受容します。

この本作の描かれた「私の犬を毛嫌う表現」が、太宰がはじめに主張したかった内容で、次に「ポチ」を受容して終わる場面において、その作家の主人のようにある「読者」でも、受容し抱擁する(つまり許す)という姿勢をもって、一応の大団円を講じていると言えるでしょうか。

本作において「犬」の形容は、「媚びを売って主人にへつらう、汚い生き物の象徴」のようにして描かれています。

そして「友人」は「私」の友達であり、この「私」を太宰と見立てた場合、冒頭句にある「伊馬鵜平」を指すもののように見て取ることもできます。

伊馬鵜平というのは太宰と同じ井伏鱒二の門下に座った、無二の親友でした。この親友もはじめは太宰と同じく作家を目指していましたが、時代の流れと周りの人の勧めにより、劇作家に転向しています。

この『畜犬談』という作品は、伊馬鵜平を作家と見立てた上で、その作家に「編集者や読者に媚び売りをせずに作品を書け」という、当時の時代の風潮を非難した上での「作家のあるべき姿をアピールした作品」と考えられます。

上記はあくまで私の私的見解です。どうぞ皆さん、この『畜犬談』をお読みになって、独自の感想・解釈を立ててみて下さい。

畜犬談とは太宰治の短編小説。

甲府の仮住まいに住む「私」は、いつか必ず犬に噛まれると確信しているほどに犬を嫌っていた。強い論調で犬の恐ろしさ・厭らしさを説く「私」であったが、いつしか一匹の汚らしい野良犬に付きまとわれることになる。

引用 ウイキペディア

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